氏「武末」のルーツ幽谷庵へ

            -全国の「武末」性の皆さんへー  改訂版              武  末  昌  秀

                 アンダーラインの部分は各根拠情報とリンクしています。

 「武末」の氏は、日本全国において、非常に少ない氏のひとつである(全国世帯数653戸、全国人口4345位

    ・・
未確認報告書 )。  また人口2000人のうち、54%が福岡県に集中し、そして長崎県にも15%前後存在する

  (たのつく苗字

   私が知る限り、「武末(たけすえ)」氏が古くからまとまって存在する場所は、福岡県の筑紫郡の須久(現春日

  市)、筑紫郡岩戸(岩門)村
片縄(現那珂川町)、田川郡赤池町、筑後の大牟田市(たけまつ)、そして長崎県の

  
対馬壱岐、さらに宮崎県の高鍋である。

   古資料上、「須久の武末」は室町時代に存在が認められ、「片縄(岩戸)の武末」は鎌倉時代に存在が認めら

  れるが、「対馬と壱岐(松浦)の武末」は松浦党が少弐の支配下になった後に認められる。
 「須久の武末・・春日市の歴史資料によると、室町時代(1352年)の須久に武末氏が登場している(同表示

  の安楽寺とは大宰府天満宮のことであり、
同天満宮の領地であった須久村が天満宮を配下に置いた大宰府政

  庁から武末に任された
という内容)。

   同市のその後の歴史資料において、同場所にときおり「武末」何某が出てきており、
(春日市 -春日市の素顔)

  、現在も同所にその末裔と見られる「武末」氏がおられるので「須久の武末」が「福岡の武末」従って「全国の武

  末」のルーツである可能性が、地理的、歴史的にみて、強いと思われる(総本家は東京に移住したらしい)。

      平安時代に、
藤原秀郷の後裔武藤資頼(坂東平氏の出、源頼朝の家人)が、頼朝により太宰府の次官(太宰

  少弐)に
任じられ、鎮西奉行等北九州諸国の守護となったのが、
その後の少弐氏の起源ということであり(少弐

  氏 - Wikipedia)
、武藤資頼(すけより)武家家伝_少弐氏を初代とし以後17代まで少弍を氏としている。

   日本性氏語源辞典
によれば、
武末は武藤の末裔の意味で本性は武藤ということであるから、武末氏のルーツ

  は、武藤資頼(坂東平氏の武将)⇒(源氏の武将)⇒(大宰府政庁の次官=少弐に着任)⇒(少弐氏の起源となっ

  た武藤資頼の子 孫=須久荘園主及び岩戸(岩門)城城主)ということになり、
武藤資頼の子孫で須久の荘園主

  に任命された
もの(須玖の武末)
及び岩戸(岩門)城城主となったもの(片縄の武末)ということになる。

     なお、南北朝時代や元寇の役での戦いで、多くの少弍の直系が死亡している。

   また、春日神社は奈良時代に藤原氏の氏神である春日大明神を大和国から迎え入れて創建されたというこ

  とであるが(春日市の歴史)
武藤は武者所の藤原氏ないし武蔵の藤原氏ということであるから(日本性氏語

  源辞典)
、武末の
大元のルーツは藤原氏ということになる。平安時代は、春日近辺の領主は、有力領主による

  土地の争奪戦によりしばし変更したということであるが、鎌倉時代に至り、周辺の白水は岩清水八幡領、小倉

  は宇佐八幡宮弥勒寺領そして須久は大宰府天満宮領の各荘園として確立されたようだ(春日市の歴史)

   
少弐氏は、南北朝時代に宮方と対立、抗争し(春日市の歴史)、足利尊氏が中央の宮方に敗れて九州筑前で

  武家方の助力を求めた際に、宮方(菊池氏、阿蘇氏等)の大軍と戦って、以後、
尊氏が九州の諸侯を集めて、

  東へ攻め上るに
大きく貢献したので、足利が支配する室町時代至り、その時期に、少弐(=武藤)の末裔武末

  に対し、
須久の荘園が安堵されたものと(直前に大宰府は宮方によって攻め滅ぼされていたので報償の対象と

  なりえた)、強い蓋然性をもって認められる。

   なお、元寇後、鎌倉北条氏は「鎮西探題」を設置して、九州西国の守護職を殆ど北条一門で固め(田中政喜・

  九州太平記)、太宰の少弍の支配下に置いたということである(なお、北条系平維将氏系北条氏族系久下氏系

  武末・・・・日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏維将流【3】


   なお、上記の、足利尊氏が九州筑前に落ち延びた際に、手勢1千に対して、南朝方(宮方)菊池、阿蘇勢6万

  に攻められ、自害を覚悟するまでに至ったが、宮方の松浦党が裏切り武家方(少弐、島津、大友等)につき菊池

  勢を背後から攻めたために、勝利したという歴史的事実があり(田中政喜著・資料による九州太平記ー多々良川

  大合戦)(武家家伝_少弐氏)、その後、少弐氏方側と松浦党との間に婚姻関係当の人的交流がなされたとい

  うことであるから、以後武末の一部子孫が松浦党の配下として、松浦党支配下の壱岐、対馬に渡ったものと理解

  される(なお、当時既に筑紫の国は少弐の支配下にあったが、その後、肥前の松浦党も少弐の配下になっている

  =弘安の役の後の少弍の守護職は、筑前、豊前、肥前、壱岐そして対馬に及んだ(少弐氏 - Wikipedia)


 「片縄の武末・・片縄は筑紫郡岩戸(岩門)村に在所する。岩戸(岩門)城城主であった少弐(武藤)景資(かげ

  すけ)少弐景資少弐景資少弐景資(当時太宰の少弐であった少弐経資の弟・蒙古襲来の際の日本軍総大将

  の子孫であると思慮される。

   少弐景資(かげすけ)も少弐経資も、武藤資頼(少弐氏の元祖)の孫であるから、武藤の末裔という意味の武末

  である春日の武末(荘園経営)も片縄の武末(武士集団)も、遠い(当時は近い)親戚という関係にあることが、春日

  市や那珂川町に残された古文書から、認められる。

      少弐景資の墓は、那珂川町(市)に現存している。以前野ざらしの状態であったが(前掲のHP写真)、屋根等の

  施設が設置されたのは町長(市長)が武末氏になってからか(武末←武藤の末裔←少弐資頼←太宰府の次官)。

 
赤池の武末・・同地の古老から聞いたところによると、かって同地で武族間の争いが起きた際に、筑紫の

  国から助勢にきたものが、そのまま住み着いたという伝承があるということであるから、おそらく片縄の武末

  の直系であることが推測される。

 「宮崎の武末・・高鍋藩に移住した筑前秋月家臣の中に「武末」がおり、その子孫が存在しているらしい(・・・

  2チャンネル?)。同秋月藩は、戦国時代筑前、豊前、筑後を領していたが(江戸時代以降の5万石黒田の支

  藩とは異なる36万石)、戦国時代末期に秀吉に降伏した際に、日向高鍋に移封されている(江戸大名公卿net)。

   当時の秋月藩に属していたいずれか(須久・片縄は筑前、赤池は豊前、大牟田は筑後)の武末(おそらく片縄

  の武末)が秋月藩の家臣であったらしく、その一族ないし一部が、藩主に従って高鍋に移住したものと考えられる。

 「須久の武末」のなかで「武末新兵衛」なるもの(武末新兵衛)が著名である、安土桃山時代から江戸初期頃

  、須久の庄屋をしていた者らしいが、白水大池の造成工事で農業用灌漑治水に尽力したということで(白水大

  池
)、小学校の教科書にも出たということである(筑紫平野は、四国の香川と並んで、ため池が多い所である

  ーフェーン現象により乾燥する地理的条件にある)。

   先日、武末と秀吉との間で交わされた文書が市に寄贈されたという記事が、地元新聞に載っていた。

 なお、須久は、弥生時代の如国(漢の如の倭の国王の如国)の中心であった須久岡本遺跡の 中心に位置す

  るので、古くから農耕地が開発されていたと思われるが、平安時代から安土桃山時代までの間、
各有力氏の間

  で争奪戦が繰り返され、少弐の支配時代から、大内、毛利の支配時代を経て、(大友が支配してい時代(安土

  桃山時代)に、薩摩から攻められているー春日神社が焼かれたらしい・・春日市の年表ー当時白水の荘、小倉

  の荘、春日の荘共々須久の荘の各荘園は、大友の支配下にあったものと思われる。)その後、秋月藩そして秀吉

  の支配下となり次いで黒田藩の支配下になって、明治維新を経て現代に至っている。

   同地の武末は如何なる運命を辿ったか計り知れないが、少弐が大内更に竜造寺に滅ぼされて以後は、少なく

  とも本家の須久武末は野に下って庄屋となったようであるが(岩戸(岩門)の武末景資は鎌倉時代に兄経資から

  殺されている)、いずれにしても子孫は民百姓として現地で継続したものと思われる(北部九州は群雄割拠状態、

  支配者がめまぐるしく交代し、離合離反が繰り返された状態が多く、その系列の解明は単純ではないとされている)。

 壱岐の武末・・前期の通り、南北朝時代に、少弐との関係で、小弐の末裔である武末の一部が、婚姻関係で

  松浦党下に入ったのが起源と認められる。

   なお、壱岐に「武末城跡」がある(勝本城その他の別名を持っている)。武末城は、秀吉が、朝鮮出征の際に

  名護屋城の出城として松浦党に築かせた城である。しかし、豊臣家から城主に任命されたのは本多氏(因幡守

  正武)であったから、武末氏は城主の氏ではなかったものである。
従って、「壱岐の武末」が城主の子孫というこ

  とではないようだ。
武末城 - Google 検索

   ちなみに、、「武末城」名の由来であるが、一説によると、「武」はダケであり,ダケは岳すなわち山を意味し、「

  末」は頂上を意味するので、「武末城」は、「山頂の城」すなわち「山城」を表していたものではないかという説も

  あるが、下松浦党系配下の武末氏が、同地区(現勝本)を領(拝領?)していたから、同氏の名で呼ばれたと

  見るほうが歴史的視点から見て、可能性が強いと思われる(なお、嵯峨天皇系融流源氏系下松浦党系武末系

  として歴史資料に出てくる・・・日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 嵯峨源氏【3】)。

   同地の武末は、東(上)松浦党が平戸藩として幕末まで続いているので、同配下として 存続していたものと推

  定される。

 「対馬の武末・・地理的、歴史的位置関係から、壱岐の武末と同じ系と思われる。

 大牟田の武末(たけまつ)」・・戦国自体に、下松浦党系の蒲池氏が、柳川城主として筑後にいたので(蒲池

  物語:歴史・系譜・史蹟)
なお、筑後争乱記・蒲池氏の興亡
)、同時期に、同じ松浦党配下の武末氏も同行してい

  たのではないかとも想像されるが、他方、筑前が大友の立花道雪の領地であった時代に、立花が筑後に攻め

  入っているので、筑前すなわち片縄の武末がこれに従って移動して定着し(その際に呼称を「たけすえ」から

  「たけまつ」に変えた)たことも想像されるので、双方の可能性を秘めている。

 小生は、出生時の本籍は「片縄」であった(住んだことはないが、今の海星小学校の南側辺りであったようであ

  る。「片縄の武末」から出た一番の有名人は、我が父「
武末悉昌」である。  武末悉昌 - Google 検索

 全国の武末の皆さん、もし何らかの情報や資料をご存知でしたら教えて下さい。より具体的なルーツ分析をし

   たいと思います。


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